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第三の戒め
2019-11-01
ニューカーク・マット

新改訳では、十戒の第三の戒めは以下のように訳されています。

「あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。【主】は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」

「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」 (新改訳2017)

(出エジプト記20:7)

 この訳が示すように、多くの人は、この戒めは「軽く、あるいは失礼な態度で神の御名を口にすること」を禁じているとみなします。そう理解すると、この戒めの適用は、「呪いとして主の名を使わないように人々に強く勧めること」となります。神の御名は聖なるものであり、私たちは軽薄に神の御名を口にするべきではありません。これは真実ではありますが、本当にそれが、この戒めが伝えたいことでしょうか。

これは不適切な話し方について言っているのでしょうか。

 ここで使われている動詞は、話し方について表現する動詞ではないにも関わらず、この戒めが「不適切な話し方」についてのものだと広く理解されているのは興味深いことです。「唱える」または 「口にする」(2017)と訳されている上記の動詞は、ヘブル語では「持ち上げる」「運ぶ」または「担う」を意味する「ナサ(nasa)」という単語です。これには「話す」「言う」「発音する」などの話すことを中心とする行動を表す意味は全くありません。これらのことを踏まえると、おそらく、この戒めは次のように考えた方が良いのかもしれません。

「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに担ってはならない。主は、主の名をみだりに担う者を罰せずにはおかない。」 と。

そうすると、さらなる疑問がわいて来ます:主の御名を担うとはどういう意味でしょうか。

神の代理として神の御名を担うこと

モーセ五書の中の「誰かが他の人の『名前』を『担っている(nasa)』との箇所を見るとき、答えは明確になります。それは、出エジプト28章で「祭司の装い」について命じられている場面です。

その二つの石をエポデの肩当てに付け、イスラエルの息子たちが覚えられるための石とする。アロンは主の前で、彼らの名が覚えられるように両肩に載せる (nasa)。」 (出エジプト28:12)

このようにして、アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの息子たちの名をその胸に担う(nasa)。それらの名が、絶えず主の前で覚えられるようにするためである。」 (出エジプト28:29)

12節の2つの石に、12部族のうちの6つの名がそれぞれ刻まれていて(9節から10節)、29節の胸当てにも、12の名が刻まれた12の石があります(21節)。これらの装いを身に着けて12部族の「名前を担う」ことによって、アロンは代理で聖所に入り、12部族の代理として仕えました。

それゆえ、第三の戒めでの「主の御名を担う」という行動は「神の代理として仕えること」として表されるのが一番理解されやすいのです。

「主の御名を担う」という考えは、聖書の他の箇所にもいくつか記述があります。例えば、アロンがどのように民を祝福するべきかをモーセに教えた後(「アロンの祝福/祝祷」として知られている[民数記6:24-26])、神は「わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する」(27節)と言いました。

簡単にいうと、神の民として神の代理をするので、神の民は「神の御名を担う」のです。

みだりに神の御名を担うこと

第三の戒めによると、神の御名を担ってはいけない方法として「みだりに担ってはいけない」ということがあげられます。ここで 「みだり」 と翻訳されたヘブル語の言葉は、「無駄な」「間違った」「無意味な」「中身のない」という意味にもなります。このように理解すると、戒めの強さは明白なものであるといえるでしょう:私たちは間違った、または無意味な方法で「神の御名を担う」(すなわち、神の代理人として仕える)べきではありません。要するに、私たちの行動によって、私たちの神がどのようなお方であるかを人々が間違って理解することがないようにしなければなりません。

一方、もしクリスチャン(キリストの御名を担う人たち!)として自身を宣伝しながらも、イエスが良しとしない行動をとっているのであれば、他の人たちは私たちを見て、私たちが仕えていると主張する神に対して間違った考えを持つことになります。私たちを見ている周りの世界に向けて、間違った方法で神の代理をしているのです。

もう一方で、もし私たちがクリスチャンではあるが、他の人たちに全く神の代理として仕えない(すなわち、かごの下に私たちの光を隠す;マタイ 5:14–16参照)とするなら、無意味に神の御名を担っているということができるでしょう(すなわち、私たちは目的なしに神の代理として出ている。)しかし、第三の戒めにおける「みだりに」の意味の範囲としては、間違った方法で神の代表として出るのを禁じるだけではなく、全く神の代表として仕えないことも禁じています。

結論:呪うことより幅広い意味を持つ

この短い分析から、第三の戒めは単に呪うことまたは軽薄に神の御名を使うことを禁じているのではないということは明白です。呪いの言葉として神の御名を使うことは神の代理として支えることにはならない。そのため、このように神の御名を使うことをやめることはこの戒めの、一つの小さな適用に過ぎないという結論が出るのはもっともであるように思います。

しかし、「みだりに主の御名を担わない」ということの含意は、正しい話し方を超えて、さらに広がっていきます。それは、私たちの総体的な態度(すなわち、私たちは言葉と行動によって、他の人たちに間違った方法で神の代理として仕えないようにしなければならない)と無関心で内向きの信仰になりがちな私たちの体質(すなわち、私たちは言葉と行動によって他の人に神の代理として仕えなければならない)の両方に関係しているのです。