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虚構
2019-12-30
チェイペン・クレイグ

聖書は時に私たちを「もだえ」させます。心をかき乱される話、また心地よくない真実は私たちを驚かせます。私にとって、使徒の働き5章のアナニアとサッピラの話はその1つの例です。ざっとこの話に目を通すと「ささいな嘘のせいで、夫と妻はペテロの言葉により死に打ちつけられた」という内容が書かれています。もし、あなたが親切で情け深い救い主を知っているのなら、この話が私をかき乱すのと同様に、あなたもかき乱されるかもしれません。

聖書箇所が自分にとって簡単ではないと感じるときは、いつでもおおよそ自分の思いが神の思いと一致していないということを意味します。また聖書箇所を掘り下げ、主の御心を捜し求める必要があることも意味します。もしこの話に漠然とした不安を抱き続けているとしたら、鋤をつかみ私と一緒に掘り下げることに、あなたを招きたいと思います。
アナニアとサッピラの話は、初期の教会の一般的な報告の流れの只中に出てきます。使徒4:32–5:16を読みつつ、5章の最初の11節を読みとばすと、全てが完璧であり、すばらしいものに聞こえます。教会にいるすべての人たちは一致をし、また驚くべき寛容さをもってお互いを気にかけていました。12使徒は力強く証をし、たくさんの人たちを癒していました。信者たちはその12使徒全員を高く評価していました。反対に、彼らに反抗した人たちは恐れを抱きました。そして群衆の多くがは彼らに加わるために集まってきました。
しかしエデンのようなこの共同体に黒い染みがつきました。この染みはあまりにも闇深く、破壊をもたらす危険があったため、思い切った処置を必要としました。その染みは、織物がすべて滲んでしまう前に取り除かれる必要がありました。著者であるルカは意外なことに、その染みについて隠そうとはしませんでした。彼はそれを包み隠しませんでした。彼はあとからくる私たちが、このことからきちんと学べるように、また誰にでも見えるように明確に示したのです。

4章を読むと、とても早い段階でキリスト者たちの共同体が、貧しい人たちの面倒を見ていたことがわかります。当時は、多くの必要性がありました。1世紀、ユダヤは数多くの飢饉に苦しみましたが、それはローマ帝国の圧政によりさらに悪化しました。最初から、教会は貧しい人を迎え入れました。特に彼らの必要性に伴い、教会はリーダたちを任命しました。(使徒 6:1–6)その少し後、ヤコブの励ましにより(ガラテヤ2:10)、パウロはエルサレムの貧しい人のために異邦人の教会での問題に気にかけました (ローマ15:25–26; 1コリント16:1–4; 2 コリント9)。

困っている人たちを助けるために、教会員たちは物を売り、配るために12使徒に収益を与えます。4章で、ルカは、この種の寛容さの例として、バルナバの行動を示しました。しかし、アナニアとその妻サッピラは、反対の例を生じさせることになりました。彼らはバルナバの例にある程度は従っていましたが、そのうちそれは崩れ、ペテロの非難のうちに死に至りました。

彼らが自分の人生で支払ったことの中で、何がそれほど深刻な問題であったのでしょうか?良い推理小説の著者のように、ルカは一人一人に手がかりを滴り落とさせます。解釈者はそれぞれ、ルカのヒントの一部をとり、問題となる犯罪を定義づけようとしました。
5章1節と2節で、自身の分を取っておきながら、アナニアは所有物を売り、12使徒にお金の一部を与えました。自身のために取っておくことを意味する2節のギリシア語の単語は、旧約のギリシア語訳(七十人訳)の中、ヨシュア 7:1でアカンが主に捧げるべき「略奪からの奪い取る時」に使われています。そのため彼らの罪は「神に所属したものを取ることを暗示する」とする解釈者もいます。他の人は決して「誠意のある寛容さ」としてそれを見ません。

3節と4節で、ペテロはアナニアを非難しませんでした。アナニアが財産と売却から得たお金を用いてやりたかったことを自由にしていることをペテロは認めました。ペテロは、むしろ、聖霊に、神に嘘をついていたことを非難しました。けれども物語はアナニアの不正の本質をまだ明らかにはしていません。
サッピラの登場はよりこの物語を明確にします。8節でのペテロの質問に対して、彼女は夫が財産を売却したすべてのお金を12使徒に渡したというアナニアの嘘を繰り返しました。

ペテロが、神からの分け前を差し控えることが間違っているという考えを取り除いて以来、多くの解釈者は3節の最初の部分から4節の終わりにかけて記されているように、罪を神の前での不誠実とみなしています。しかしながら、罪はそれよりももっと具体的なものです。

アナニアとサッピラは、寛容なバルナバの行動がどのように共同体で容認され、受け入れられ、そして尊敬を得たのか観察していました。彼らは同じように懇願し、そして善行を装うことによって「受け入れられること」を勝ち取ろうとしました。彼らの実際の寛容さよりも、寛容さがあるように見せるために彼らは慈善の行動を行いました。もしかすると彼らは寛容的に他者を助けるつもりであったかもしれません。しかし彼らは他の人に彼らがもつ実際の寛容さよりも寛容であるように思わせてしまいました。
自分自身の義が何もないに等しいということを知っている人たちにとっては、教会は天国のような意味があります。それゆえ、キリストの贖罪に信頼すること以外、私たちは何も証明することがないという知識において、私たちは安心して共に集まることができるのです。私たちの失敗に正直さは、主の憐みを大きくします。

敬虔を装うとき、教会では偽りの行為が問題になります。人々との交わりが自己義認の問題を生み出します。これにより本当の交わりは害されるのです。それは本当の礼拝をいつの間にか害することになります。そして、それは満足から偽善へと変化します。
私の母国の教会で、最もよくある不満の一つは、彼らが偽善で満たされているということです。時々この不満は大げさに語られますが、しばしば真実でありすぎるとも思われます。教会に行くときクリスチャンの多くは仮面をつけています。他の誰よりも敬虔であるように見られたいのです。「あなたのために祈っています」と仮面をつけて言いますが、その裏では祈ることなどほとんどありません。

私がまだ若いクリスチャンだった頃、御言葉を読むことに多くの時間を費やしていることを人々に知らしめるために、すぐに新しい聖書に印をつけていました。
アナニアとサッピラの例は、見せかけのこれらの小さな行動が墓への危険になるということを私たちに教えています。初期の教会は外からくる攻撃によって繁栄しましたが、偽善は教会を衰えさせる恐れがありました。ぶどう園の農夫はぶどうの健康のためにその枝の手入れをしました。(ヨハネ 15:1–2)神は教会への憐れみまたは警告としての厳しさをもって行動しました。

「ですから、あなたがたは癒されるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。」 (ヤコブ5:16).