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神に応答する歩み
2020-03-18
大庭貴宣

今回のブログでは、私が神学生のときに牧師から教えられ、考えさせられ、どのように歩むべきか示されたことを皆さんと分かち合いたいと思います。

十字架上のキリスト。人の目に、どのように映るでしょうか。無残な姿。刑罰を受けている姿。そして死にゆく者の姿。そのようなことかもしれません。

しかし、御言葉から教えられるのは、決して、そのような姿ではありません。十字架上のキリスト。ここに神の愛が最も現されています。また、最も自由な者の姿が現されています。その意味を考えましょう。

ヨハネの福音書10章18節には「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです」と書かれています。つまり、イエスさまはご自身から進んで十字架への道を進んで行かれました。十字架で、苦しみを受けることが分かっていたのに、です。イエスさまは、どのような苦しみを受けられたか。私たちは、体に受けた苦しみを想像するかもしれません。もちろん、イエスさまもその苦しみを受けられました。けれども、イエスさまが受けた苦しみは、それだけではありません。 マルコの福音書15章33節と34節には、次のように書かれています。「さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」。

暗闇の中でのイエスさまの叫び。これはイエスさまが、父なる神さまの御怒りを受けていることを意味します。この御怒りこそ、本来、私たちが受けるべき神のさばきでした。そのさばきを、イエスさまは私たちに代わって十字架で受けてくださいました。父なる神との愛の交わりが断たれること。これが、イエスさまが受けられた苦しみのさばきでした。

なぜ、イエスさまがそのさばきを受けられたのか。それは、私たちが罪の結果である死と滅びから贖い出されるためです。また、本来、私たちに与えられていた「神を愛し歩む自由」、「隣人を愛する自由」を回復してくださるためでした。
十字架上のキリスト。それは十字架から降りる力がなかったのではありません。そうではなく、ご自身で十字架への道を進み、ご自身の意志で十字架にとどまっておられました。その動機は「完全なる愛」によってです。私たちが滅びることがないようにと贖い出してくださった愛。その愛によって、ご自身の意志で、言い換えれば、自由の中で十字架上に留まられたのです。

さて、私たちはこの愛にどのように応答すべきでしょうか。私たちは本当に苦しい状況に陥ることがあります。本当に理不尽だと思わされる出来事に出会います。その時に、私たちが気をつけなければならないことは、イエスさまによって回復された、神との、また隣人との愛のある自由な交わりを損なうことのないようにということです。私たちが、苦しい、また理不尽な状況に立たされるとき、ただ怒りにまかせて歩むならば、神さまへの自由な応答は失われ、ただ出来事への反応を示すことで終わってしまいます。

イエスさまは十字架上であっても、愛のある自由のなかで私たちを贖うことへと歩まれました。私たちは、この姿に倣うことができます。自分が出会う様々な状況で、ただ反応するのではなく、神に応答する自由が回復されました。

私はこのことを教えられ、信仰の歩みを始めました。今でも私の信仰の歩みの大きな助けとなっています。今回、このブログで分かち合うことができたことを主に感謝します。